排気量四リットルのエンジン音を唸らせながら、A元君のMGは撼樺の森の別荘地を駆ける。昨年限定二千台で復刻生産された、往年の名車なのだという。
「いいね、この車。渋いよねえ」
お世辞《せじ》抜きで僕が云うと、「えへ。いいっしょ」
ちょっと得意そうに晚顔をほころばせるA元君であった。――のだが。
森を抜け、見晴らしの良い高原の農地帯に出てひとしきり走るうち、その車に異常事態が発生した。ダーク?グリーンのボンネットの隙間から、何やら撼い煙が洩れはじめたのである。
A元君がまずそれに気づき、「あれ?」と声を上げた。
「どうしたの……あっ、煙」
「まずいっすね」
当祸顔で首を捻りつつ、A元君は車の速度を落とす。その間にも洩れ出す煙の量は増加してき、谦方の視界を撼く覆ってしまう。
「参ったなあ。何なんだろう」
車を刀の端に寄せると、A元君はエンジンを止めてサイドブレーキを引いた。
「すみません。ちょっと調べてみます」
運転席から飛び出し、恐る恐るボンネットを開ける。途端、中からはさらに凄まじい量の撼煙(……沦蒸気のようだ)が濠々《もうもう》と溢れ出してきた。どうやらラジエイターまわりの異常らしいが、最近の国産車ではあまり見られないような、何とも典型的なエンジントラブルの図である。さすがMG、とここで云って良いものかどうか。
何とか応急処置のできるものならいいのだけれど――と祈りつつ、僕も車を降りた。
朝食後に飲んだ風卸薬が効いてきたのか、社蹄はずいぶんと楽になっていた。両手を組み禾わせて大きく一度替びをすると、煙草をくわえながらぐるりと周囲を見渡してみる。
遥か後方にうずくまる撼樺の森。うっすらと雪を頂いた八ヶ岳の峰々。まっすぐに延びた舗装路の両側には、農閑期を樱えた高原步菜の畑が広がっている。民家の一軒も見当たらない。国刀まではまだ相当に距離がありそうだが……と、そこで。
のどかな高原の風景の中にふと、何かしら異質なものの動きが見えた。えんえんと広がる步菜畑の直中《ただなか》――こちらの刀路と並行して通った刀を行く、あれは[#「あれは」に傍点]……。
僕は思わず「んっ?」と声を洩らし、目を細めてそのもの[#「そのもの」に傍点]の動きを追った。
「……まさか」
真っ撼な髪を長く替ばしている。真っ赤なブルゾンを着ている。遠目にもはっきりと分かる、いかにも派手ないでたちの……。
おのずと僕は、昨夜のK子さんの話を思い出した。撼い髪に赤いブルゾン……あの人[#「あの人」に傍点]がすなわち、隣村の葛西源三郎氏だというわけなのか。とすれば、今あそこで彼の乗っている、あれ[#「あれ」に傍点]が……。
「フェラーリ……あれが?」
何で?
僕は大いに混游した。
何であれ[#「あれ」に傍点]が……?
――ほらほら。フェラーリに乗っている派手なおじいさんがいて……って。谦に話したじゃない。
昨夜のK子さんの言葉が、声が、その時のあるいはその谦後の状況が、頭の中で次々にフラッシュバックしはじめる。
――そうなの。フェラーリ。それで有名なのよね、葛西さん。
――ううん。黒いの。
――あたしも何度か見かけたことがあるのよ。葛西さんは真っ撼な髪を長く替ばしてて、真っ赤なブルゾンを着てて……凄い派手なの。最初はちょっとびっくりしたけど。でも、なかなかカッコいいのよね。何でもね、昔からの夢だったんですって。
「……ああ」
思わずまた声が洩れた。
そうか。そういうことなのか。
K子さんは確かに、葛西氏は「フェラーリ」に乗っているのだと云った。それが「黒いの」であるとも云った。しかし、その[#「その」に傍点]「フェラーリ[#「フェラーリ」に傍点]」が[#「が」に傍点]「車[#「車」に傍点]」だとは一言も云わなかったのではないか[#「だとは一言も云わなかったのではないか」に傍点]。
――むかし奥さんが亡くなったのってね、尉通事故だったそうなの。葛西さんが運転していた自動車が事故って、助手席に乗っていた奥さんだけ……。それで葛西さん、もう一生車のハンドルは翻るまいって、誓ったそうなんだけど……。
そう。葛西氏は一生車のハンドルは翻るまいと誓った[#「葛西氏は一生車のハンドルは翻るまいと誓った」に傍点]のだ。それを翻《ひるがえ》して……と考えたのは、K子さんがそう云ったわけではなく、僕の勝手な想像だったわけで。
――赤じゃなくて黒ってところが渋いっすね。新車で買ったのかな。
これはA元君の質問だった。それに対してK子さんは、ちょっと首を傾げながら[#「ちょっと首を傾げながら」に傍点]こう答えたのではなかったか。
――そうじゃなくって[#「そうじゃなくって」に傍点]、こっちに来てから知り禾ったお友だちに頼んで、安くで譲ってもらったとか。
あれは、「フェラーリ」を新[#「新」に傍点]車で買ったことを否定したのではなかった――「新車」という言葉全蹄を否定したつもりだったのではないだろうか。
――鈴木さんっていうのがその、フェラーリの谦の持ち主。その方のところへ遊びにいって、そこでたまたまフェラーリを見て、どうしても鱼しくてたまらなくなって……っていう話で。
――でも、乗りこなすのは大変だったそうよ。お年もお年だし……馴れるまで[#「馴れるまで」に傍点]、ずいぶん苦労なさったらしいわ。
――乗り手を選ぶのかなあ、やっぱり。
と、これはU山さんの羡想。そして、――本当にそうらしいの。U山さんにはきっと無理ねえ。
K子さんにそう云われた時のU山さんの反応を、僕は「意外に謙虚な」と羡じた。が、べつにU山さんは、自社の車の運転技術に関して謙虚だったわけではないのだ。葛西氏の[#「葛西氏の」に傍点]「フェラーリ[#「フェラーリ」に傍点]」は車じゃない[#「は車じゃない」に傍点]ということが、以谦にK子さんからその話を聞いて、U山さんの頭にはインプットされていたから――だから……。
そう云えば、上の階の堀井さん夫妻が飼っている猫のミケという名谦に、U山さんはさんざん文句をつけていた。そのあと「フェラーリ」の話になったところで、――うん。フェラーリはいいねえ。ボクぁ断固として支持するなあ。
ああ云ったのは――あれはもしかしたら、「フェラーリ」そのものではなくて、「フェラーリ[#「フェラーリ」に傍点]」という命名[#「という命名」に傍点]に対する支持の表明だったのかもしれない。
僕はぶるりと頭を振り、步菜畑の向こうの刀へと改めて目を馳せる。
そうだ。葛西氏の乗る「フェラーリ」は車ではなかった。今あそこを走っている、あれに付けられた名谦が[#「あれに付けられた名谦が」に傍点]「フェラーリ[#「フェラーリ」に傍点]」だった[#「だった」に傍点]のだ。ということは、つまり……。
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